自由と責任
年末にはアメリカで BSE が、正月明けには中国であらたな SARS 患者が出たと報道されている。毎度の事だが『報道』の間抜けさと、『報道の使命』より『視聴率の為のネタ探し』的なものを感じる。
『騒ぎ』になった時だけ取り上げて、世間が食傷気味と見るや手のひらを返したように『報道』しなくなる。
私は、初めて BSE の報道があってから牛肉は食べてない。農林水産省や厚生労働省の役人の言う事なんて、頭から信用していないからだ(専門家でも難しい判断を素人の役人が判断できる訳が無い。いくら専門家の意見を聞いたとしても。現役の専門家が最終判断を下せるような組織改革が必要なのだ。)。でも、日本人の多くの人は、テレビや新聞で『安全』って言ってたから大丈夫だと言い食べている。最近、テレビでも新聞でも『報道』してないから大丈夫なんじゃない?って言って食べている。
吉野屋の牛丼で vCJD が発症するのは少なくとも10年以上先の事だから、素性もわからない牛肉を平気で食べてしまう人たちには、『関係ないさ』で済んでしまう問題なのかもしれない。自分の身の安全に関する事なのに、自分にとっては『対岸の火事』のようにしか感じずに、きっと、誰かが『自分の安全も確保してくれる』と思っているのだろう。
日本人は戦後、いや、明治維新後と言えるかもしれないが、『お上』がなんでもしてくれるので、安全と水と空気はタダと思い込んでいる。また、『お上』の方も国民(民衆)は『馬鹿』だから俺達がやってやらないとダメになっちゃうと信じきっている。
そろそろ、この、国(国民)をだめにする“スパイラル”から脱しないと、本当に日本は駄目になっちゃうよ。(というか、個人的には日本に将来は無いと見ているので、娘には英語教育だけは今からやっている。娘の将来の活躍の舞台を日本だけに限定したくないからだ。)
『自分の事は自分で責任を取る』。意味を良く考える時が来ていると思う。
・“自由”と“無責任(自分勝手)”の勘違い
・“機会の平等”を“結果の平等”と勘違い
今、その辺にいる日本人に、『自由と無責任(自分勝手)の違い』『機会の平等と結果の平等の違い』を尋ねたら、まともな答えが返ってくるのは半分以下だと思う。
年頭に当たって、また、“グチ”になってしまった。ここ WebMaster's impressions はそのうち、“WebMaster's complaint”に改名しなくっちゃならないな。
最後に、年末読んだ JAMA《日本語版》の記事の中で“激しく同意”した、北里大学医学部、砂川教授のインタビューを抜粋して紹介したい。(カッコ内は WebMas の意味の補足)
Q:感染症対策と言う点で、日本のレベルはどうなのでしょうか?A:・・・個人的見解ですが、非常に遅れていると思います。消毒薬やディスポーザブルの器具を自由に使えると言う意味では医療の現場はすごく進んでいますが、問題はむしろ、国民の意識です。例えば、中国では(SARS)患者は(他の疾患で入院している患者とは)別の病院に隔離されましたし、米国でも軍隊も出ました。それが日本でも出来るかということです。
日本でも中国などの流行地に旅行した人は10日間自宅待機とされましたが、実際には家族にそれを嫌われてホテルに泊まった人もいた訳です。シンガポールで(SARS)感染が巧くコントロールできたのは、自宅待機の場合、カメラを設置して監視して、(その上)電話を入れて在宅を確認すると言う徹底した対応を取ったからです。
そのような措置を日本人が受け入れられるかどうかが疑問です。
感染症新法でも隔離が問題になり、結局、医師が言ってもダメならば知事が勧告する、といった手順を踏む事に成りました。しかし、感染の場合、そんな事をしていたら間に合わないのです。
・・・・中略・・・・プライバシーや人権は大切ですが、感染症を社会でコントロールしていくには犠牲にしなければならない事があるということを、マスコミや教育の場を通して国民に理解してもらう事が大切だと思います。