Nature vol.457 (7227), (Jan 2009) に面白い論文が掲載されている。
『ある出来事に遭遇した場合の脳の適応能力が、以前に似た体験をしているとよくなることは誰もが知っているが、、、、』って事の仕組みがわかりかけてるよ!って内容なのだが。。。。
これって“適応能力”を“反応”って言葉に変えれば、巷で流行っている言葉“トラウマ”も説明出来そうだよね?!
片方は人間にとって好ましいもの、片や、人間にとっては好ましくないものだ。
結局、自然現象(人間の行動をマクロな視点で観察した場合も含めて)を、自分に都合の良いものだけ選別するって、非常に難しいってことの証明のように感じたんだけど。。。
脳:体験から学ぶ
Nature vol.457 (7227), (Jan 2009)
ある出来事に遭遇した場合の脳の適応能力が、以前に似た体験をしているとよくなることは誰もが知っているが、最初の体験が神経回路の中でどのように表現されるのか、またそれが再学習にどう寄与するのかは、よくわかっていない。
マウスの一方の眼を一時的に閉じるというモデルは、こうした問題を研究できる系の1つである。
新しい体験(片眼視)は、視覚皮質にある神経細胞の樹状突起棘の成長を促す。
Hoferたちは、片眼視と両眼視の時期を交互に導入して、その後の神経細胞の形態を数日間追跡し、体験によって起こる構造的変化動態を記録した。
その結果、長く持続する樹状突起棘の密度が片眼遮断に応答して増加し、体験終了後も突起棘は増えたままになることがわかった。
しかし、2回目の遮断では、さらなる棘密度増加が引き起こされなかった。
したがって、最初の体験が構造に「痕跡」を残し、それがさらなる刺激に応じて使われると考えられる。
Letters to Nature p.313
お正月休みの最終日、ぶらりと出かけた本屋さんで『坂の上の雲』を見つけた。今年の年末から3年にわたって放送されるNHKの“超大作”ドラマの原作なのだそうだ。
私は、ほとんどテレビを見ないのだが、海外のドラマは良く見ている。『24』『プリズンブレイク』『ヒーローズ』『CSI』などなど。つい先日は『ローマ』を見終わったところだ。
だから、“超大作”ドラマって言葉には弱い。というわけで、ドラマを楽しむための下準備として原作を読んどきましょ!って、買ってみたのだ。
出だしから快調に面白いのだが、第2巻に入って、ちょっと“心にもやもやする感じ”が沸いてきてしまった。
具体的には、日清戦争前、伊藤博文が派兵“一旅団”を承認したあたりからだ。小説では軍部の参謀が“一旅団”の人数をごまかす事が、“悪い”事として描いている。(著者の持論なのだろうが、戦争を賛美する感情を減衰させる効果狙ったにせよ、読み物的にもちょっと五月蝿い感じがした)
私は“いち小説家”の価値観をどうのこうのと言うつもりは全くない。面白い小説を世に送り出すのが、作家の仕事なんだから。けれど、この考え方を“正当”と捉えてしまう“単純な読者”がいるであろうことは、人気作家なれば配慮してほいしところだ・・・(小説ごとに、とちらかに偏らせた作品を書き、後は読者の判断に任せるって事で。でも、もしかしたら、殆どの小説家が作品に持論を展開しない中で、この作者の作風が人気の秘密なのかも知れんが)。
そういう描写は、言葉にはなっていないが、私が感じるところ『文民は軍事作戦にも口を出すのが当たり前』ってことになると思う。
要するに、この辺の価値観が、例えば、田母神論文を『シビリアンコントロールを揺るがす行為だ』とかなんとか言ってる根拠になっているのでは?
シビリアンコントロールって、ただ一点、問題解決に武力を使うかどうかの決定権の事なんじゃないの?ならば、日本じゃ“やる・やらない”を軍人が決定するわけじゃないんだから、シビリアンコントロールは揺らいじゃいない。
企業に例えれば、そのプロジェクトを進めるかどうかの判断は“社長”“役員会”がするけど、具体的な“開発や戦略”は現場の研究者や技術者に任せるのが当然だよね。
やるって決めた後、シロウト“社長や役員”が口を出しても良い結果なんて出るわきゃない。
その前に、『やるかやらないか』を“さんざん議論して”て決めるんだから、口を出すって事は、その判断に自信が無い証拠になっちゃうってもんだ。
ましてや、外交。お互い、手の内を晒しながらやりあうなんて事はしない。
武力を行使する前までに、考えうる限りのオプションを展開する。最後が武力だ。そうなれば、勝つ事が目的になる。
武力を小出しにして威嚇することを、文民のコントロールなんて言うようでは、北朝鮮のやり方を肯定するようなもんじゃないの?伊藤博文が『派兵について小数ならOKだけど、それじゃ数が多すぎる』って描いていることが事実だとしたら、ちょっとマズイんじゃないのかなぁ。陸・海軍大臣は議会に縛られるけど、参謀は天皇の直属だから・・・なんてどうでもいいけど、トップが最終的に判断したら、後は専門家に任せろってぇ~の。
そんなこんなで、具体的なもやもやなんだけど、、、日本では研究者や技術者が正当に評価されない事が、トップや周辺のシロウトがいつでも口を出せる仕組みを“善し”としていることにあるんじゃないのかと。。。
ここに繋がるから、ちょっと“心にもやもやする感じ”なのだ。彼らに潜在的に存在する“専門家(スペシャリスト)”を軽んじる風潮、総合職(ジェネラリスト)が、一段上で仕事をしているっていう認識、、、、
突発的に生じたテロへの対応に、大統領自らがF16戦闘機からのミサイル発射の指示を出すシーンなどが『24』では描かれている。こんな場合には、一発のミサイルが、その後、どのような展開を招くのかわからないから、いちいち、大統領の判断が必要だろう。
しかし、例えば、日本では中東に於ける後方支援を行うことに決定するまでには、十分、議論を重ねることが出来るはずだ。遊びに行く場所じゃない。命の危険がある場所に行くのだ。後方支援はやるけれど、銃弾は使っちゃダメってのは、シロウトが研究に口を出すのと同じなんじゃないの??
銃弾を一切使わせないためには、『行っちゃダメ』にしなきゃならない。
行かせるんなら、『責任は俺が取るから、現場での指揮は任せた』ってやらなきゃ。
せめてもの救いは、年末の“朝まで生テレビ”、田母神論文反対派が論陣をはったのだが、電話アンケートでは6割を超える人が田母神論文に賛成だと。(ヤッパ生がいいよねぇ・・・・、あっ?ちょっとエッチ??)
さらに言うなら、大衆は、なんとなく知っているのだ。ナショナリズムなんて言葉を使って、戦争の是非を問おうとする事への違和感を。
そうなのだ。集団には、色々な個性を持った個体が存在する。全体の利益となる協調行動への参加者より、利益だけを受け取る不参加者の方が得になる時に、何故ある種の協調的行動が持続するのかと言うことを。
残念なのは、著者が人が生物として繁栄するためには(価値観においても)多様性が生まれることが必須で、国の為に犠牲になるという行為が、悪意の満ちた洗脳集団(暴走した軍部)による結果ではなく、生物の“集団としての本能”だということを知らなかったことだ。
下記の引用論文にもあるように、このような行動原理は、まだ、解明できたわけではない。だけど、解明できてなくても、人間はなんとなく感じるのだろう。うまく言葉に出来ないことでもね。
戦争への突入などという、ある種、集団ヒステリーのような心理状態を、どう説明して良いのかわからなかった時、ナショナリズムと言う言葉で切れ味良く説明されれば、溜飲を下げてしまうのも無理は無いのだが・・・・・・。
逆説的な生産者(Paradoxical Producers)
Science January 9 2009, Vol.323
全体の利益となる協調行動への参加者より、利益だけを受け取る不参加者の方が得になる時に、何故ある種の協調的行動が持続するのかは不明である。
合成細菌系(生産系と非生産系の二つの大腸菌系統)の研究から、Chuangたち(p.272)は、集団中の構造的不均一により生産者が局所的に不利益をこうむる可能性があるが、全集団を通して見れば生産者は選択優位性を持つということを主張している。
この研究は、自然母集団のパラメーターがどのようにもつれ合っているのか、そして何ゆえに統計的な結果が曖昧となったり、誤解を導くのかを示している。
Simpson's Paradox in a Synthetic Microbial System
p. 272-275.
生物としての人間の環境(エコロジーの事じゃないよ)への対応は、大脳皮質で考えているようだけど、極限に置かれた時に、名案!と膝を打つような対応は、見方を変えれば、“悪”と評されるのと表裏一体なのは仕方の無いことだ。
人間は、善と悪のそれぞれに、別々の神経回路を使っているわけじゃないんだからね。
さて、“心にもやもやする感じ”はあるものの、『坂の上の雲』は非常に面白い。今まで、司馬遼太郎氏の小説は読んだことが無かったので、この“淡々”とした描写が新鮮だし。
また、機会があれば、べつの作品も読んでみたいぞっ。