薬剤師が気にしてること
m3.com のコンテンツの一つに《Pharmacist Community》ってのがある。
今日、気づいたんだけど、、、その中のフリートークってカテゴリーに「薬剤師は、必要なのか...」ってスレッドがあって、その総閲覧人数が、なんと、3万人を超えている。群を抜いている数なのだ。
このコンテンツには、その存在を忘れた頃に訪れる程度だったので、このような“お化けスレッド”が生まれていたとは・・・・・。
驚いたのは、「薬剤師は、必要なのか...」ってことに、これだけの薬剤師が興味を示している事だった。
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・・・ので、この“総閲覧人数”自体のカウント方法が気になった。というわけで、m3.com スタッフに、カウント方法の問い合わせをした。
担当 御中・・・“総閲覧人数”に関する問い合わせです。
この“総閲覧人数”は、重複を含まない個別のユーザーIDの総数でしょうか?それとも、閲覧された延べ回数なのでしょうか?
・・・差し支えなければ、そのカウント方法を教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いします。
ってな、感じでメールしたのだ。
m3.com に登録してるってだけで、“マジメな薬剤師”ってことなのだろうが(私は、まじめではない自信はあるけど)、それにしても、3万人はスゴイ。ほぼ、登録人数?
「薬剤師は、必要なのか...」って事に関心があるって事は、裏を返せば、自分も「必要ない・・・」と思ったことがある、もしくは、「必要ないと思われている」と感じたことがあるに違いないからだ。
全部は読んでないのだが、ざぁ~と見た感じで、不必要論を唱える人、必要論を唱える人、反論する人、、、などなどあるのだが、予想通り、「必要だ!」「必要でありたい」、(虚勢を張って?)余裕を示して「不要論の意見は貴重」などなど、98%は“必要”になっている。
本心はわからないけど。(本音を書くと“荒れる”?)
でも、私が感じた「3万人はスゴイ」ってのが、延べ閲覧回数だとしたら、また、違ったものの見方は出来るんだけどね。。。。。
さて、【安倍元首相に“お馬鹿さん”と言われた仙石さん】で書いた事だけど、、、
日本は、日本国憲法において国民の生命、健康、財産を守ることを約束している。その為に医療の目的と理念を定め、法として医療を国民に提供することを約束している。一方、医療行為は基本的に、人権の侵害行為であり、身体傷害行為を伴うことから、法的には“医療行為は違法行為”である。従って、医療行為を一般人には禁止し、国の責任において認めた有資格者のみに許可している(禁止の解除)。
また、医療を行うには、その行為が許される要件、適法要件(違法性の棄却要件)を満たした場合のみに、その医療行為の実施が許される(許された危険行為)ようになっている(法=国が常時監視するわけにはいかないので、現場に裁量権が与えられている)。
私は、これが、医療職の“資格免許”の意義であると思っているし、だから、薬剤師は必要だと、考えている。
《Pharmacist Community》のそのスレッドでは、法律に規定される薬剤師の独占業務の範囲を明示していない為、個々の薬剤師が、違った状況を想定し主観的で感情的な議論になっていると感じた(薬剤師法第1条に書いてある業務の範囲は、けっこう、広い)。
また、薬剤師の仕事は、誰が見ても“誰でも出来る”けど、資格を持っていない人は、この行為を行うだけで、“犯罪”となるのだ。その一点のみで、私は、薬剤師(という職業、資格)は日本に必要だと考えている。
薬剤師自らが、「必要ないかも・・・」と思う背景は、このような“誰でも出来る仕事”だと、自らが感じてしまうことにあるのかもしれないが。。。。
でも、自己を肯定する気持ちが強い人達は、薬剤師の中にもいる。自問自答の裏返しのような気もするのだが、他の医療職から見たら、どんぐりの背比べ的な業務の違いにプライドを保とうとする一部の薬剤師達だ。彼らは、薬局の中では、チェーン薬局や門前薬局の薬剤師は“劣る”とか、市中薬局の薬剤師は病院の薬剤師より“劣る”などを言葉にする。
さて、必要かどうか?という言葉も、意味が色々に取れる。
例えば、“必要とされる”を“信頼されると事”と考えてしまった場合はどうか。
この場合は、信頼されるのは、“薬剤師”という職業ではなく、薬剤師である“○○さん”ではないだろうか?
また、例えば、“必要とされる”を“よく勉強している”と考えてしまった場合はどうか。
この場合は、その勉強した事を生かす機会が有る無しにかかわらず、評価するのは受益者である患者だ。薬剤師自らが判定することではない。
高血圧の患者さんに、「私は、抗がん剤に関しては日本一の知識がある。薬剤の選択から必要な量、投与方法まで、私の右に出る薬剤師はいない」と言っても、「ふ~ん、それで?」となるだろう。この手の知識、経験を『自分は偉い、スゴイ』と勘違いしている薬剤師も、少なからずいる。
また、例えば、“必要とされる”を“庶民の関心度”と考えてしまった場合はどうか。
この場合は、「薬剤師が主人公のドラマが少ない」「だから、そうなれるようにアピールが必要」・・・・とか。
ドラマの中で主人公になりたいなら、医師を目指したほうが良い。薬剤師は、どうやっても、主人公にはなれない。薬剤師の業務の中にドラマを見出そうとするのは、児童書のなかに哲学を見出すが如きだ。
また、例えば、、、、
、、、、、って、もう、いいかっ?
このような“主観的”な“意見”から、薬剤師が必要かどうかなんて、とても導けそうもないからね。
話は、変わるけど、サンデル教授のハーバード白熱教室で、哲学とは何かを、私なりに“感じた”ワケだが、科学、特に物理学は当然として、哲学も、その論拠に限りない“客観性”を求めている。
これが、いわゆる“文系の学科”の中でも“異色”な感じがして、尚且つ、私のような理系人間の興味をそそる理由になっているのだろう。(《ソフィーの世界》ってのが流行った時、読んだけど、眠くなっただけだったから、サンデル教授の授業と著書が特別なのかもしれないが)
文学や小説では、こうはいなかない。
例えば、文芸評論家や文壇のお偉方たちは、日本の小説の分岐点に司馬遼太郎を取り上げることが多い。今日の読売新聞朝刊にも「司馬史観を再考する」なんてページがあって、その中で、「それまでの日本の小説が、ほぼ、私小説だったのに対して、司馬のそれは、極力、私見を廃して云々・・・・」みたいな事が書いてあった。
なるほど、文系の人達は、そういう見方をするのか、って感じた。
私のような者(私小説の“定義”すら知らず、司馬遼太郎の作品をまともに読んだのは「坂の上の雲」だけのような者)が、物申すなんて、おこがましいのだけれど、氏の文章のどこが、客観的なのだろうか?と。(短いセンテンスをつなぎ合わせた文章の性質を指摘する人もいるが・・・)
科学分野の知見を知らず(※1)、史観の中に農民の視点が欠落している様(※2)は、どう見ても“客観的”とはいい難い。“客観的的”というのなら、言い得ていると思うけど。
※1:NHKドラマ「坂の上の雲」ではバランスをとるため原作にない森林太郎が登場する
※2:明治元年から始まり、現代まで尾を引く移民政策で、海外にやっかい払いされたのは、ほぼ、100%農民だ。司馬が武士の失業対策には言及しいるが、農民の移民政策に言及しているのを、私は知らない
でも、小説はわかり易くなければ成り立たない。
このわかりやすさを捨てると教科書や哲学書、科学書になってしまう。
司馬遼太郎が活躍した時代は、高度経済成長時代。いわゆるインテリ層を読者のターゲットにすると、農民目線の“読み物”では、どうしようもない。政治家と武士の目線、軍人の目線が必要で、明治と戦前の昭和時代を比較する(皆が知っている時代を暗黒にし、明治にロマンを求める)のは、当然の帰結だ。
このことを以ってしても、司馬遼太郎の評価が揺らぐものではない。けれど、これを“客観的”だと捉えてしまうと、“薬剤師が必要かどうか”の判断に主観を交えてしまうのと同じことになると思う。
文学は、このこと一つとっても、楽しまなければならないものだと思う。
今朝の読売新聞朝刊でも、一人の評論家は、「司馬史観などと呼ばずに、司馬小説と言った方が適切ではないか」と言っていた。同感である。“史観”などと、アカデミックな雰囲気を醸し出すような事をせずとも、“小説”で、十分な価値があると思う。司馬遼太郎は。逆に“史観”という表現には、明らかに、書棚、書庫を背景にテレビに映る現代の有識者のような“意識操作”を感じてしまう。
薬剤師が必要かどうかなんてことを考えるのに、主観での議論は不毛だと思う。
でも、薬剤師は、主観をモチベーションにしながら、存在するんで良いと思うんだけどなぁ。十人十色。給与の評価は別にして、司馬遼太郎の小説を、“人生訓”とか“史観”のように大げさに評価するようなことをせず、楽しんで読むようにね。