見えるということ
前回は、光受容体のことを書いた。その続きで、、、、光を吸収するのはレチナールなんだけど、吸収する波長を選択するっていうか、特定の波長に反応するのに重要なのは“オプシン”と呼ばれるタンパクだ。
オプシンはその構造がわずかに変わるだけで、吸収できる光の波長がドラスティックに変化する。
だから、吸収できる違いで微妙に異なるオプシンを組み合わせれば、色覚が実現できるようになるってワケだ。ヒトの場合は、青(433ナノメートル:nm)、緑(535nm)、赤(654nm)のスペクトル領域の光を最もよく吸収する3種のオプシンを持っていて、文字通り、世界を見ているってこと。
進化の歴史を辿れば、もともと1個だったオプシンがその過程で複数の波長に対応できるようになったと考えられているワケだが、、、、面白いことに、哺乳類では霊長類を除いて、2種類のオプシンしか利用していない(霊長類でも細かく分けるといろいろ例外があるらしいが)。
ヒトから言わせりゃ、彼らは“色盲(この言葉は放送禁止用語かな?)”なんだけど、霊長類以外の哺乳類は、これで世界を見ているワケ。霊長類は、一度失った緑色(だったかな?)をもう一度獲得して、3色そろえたって言われてる。
で、ヒトで赤と緑の色覚異常の人は、この遺伝子を一つ、失っているってこと。
たから、“色覚異常”なんて呼ばれかたしているけど、なんのことはない、殆んどの哺乳類の“世界観”と同じなのだ。(ヒトの基準だと“異常”なんだろうけど、哺乳類の常識じゃ、、、、?)
さらに、昆虫をはじめ、爬虫類、鳥類、両生類、、、サメは、4色型色覚で世界を見ている。彼らからすれば、ヒトは全員“色覚異常”ということになってしまう。
で、その4色目は、なんと、、、紫外部を吸収するんだってさっ!!
世の中には、白い色した“花”が、一番、多く存在しているんだけど、、、、それは、ヒトが“見て”白って言ってるだけで、、、ヒトには白にしか見えない花でも、昆虫には別の“色=模様”した花に見えているんだってさ。それは、ヒトには見えない紫外線が見えるから。
白い花は、ヒトに見られる為に咲いているわけじゃないし、植物にしてみれば“白い花”と一括りにされることに、“異議”があるかもしれないね。
ところで、ヒトは色に色々(ダジャレじゃないよ)な意味をつけている。“赤い色”に情熱なんかもその一つだけど、、、、、実は、ヒトの持っているオプシンの赤(654nm)は、654nm が示すとおり、黄緑色に近い。じゃ、どうやって、“赤”を見てるの?ってことになるんだけど、、、、結論から言うと、ヒトが見ている“赤”は、実態ではなく、脳で作り上げた、脳の創造物(創造色)ってことになる。ヒトは、2種類の受容体からの情報、すなわち、緑からはシグナルは無いって情報と、黄緑色の受容体からは弱いシグナルが入っているという情報を元に、作り上げたってことなんだってさ。
色だけじゃなく、ヒトの視覚の“イイカゲン”さは、モノの形も、脳で作り上げてしまうことにある。
左のネコは、以前にも使ったけど、ヒトの脳は“無い”ものを“有る”が如く処理してしまう。
実際にやってみて欲しいんだけど、、、
まず、クリックして、ネコちゃんの絵を大きくする。
右目を覆って(みだり目だけで見る)ネコを見続け、だんだん顔を近づけると、、、
アラ不思議、ネコの左にあるグレーの棒がつながっちゃった。。。(脳が、盲点を補完している)。
ヒトは、自分に“見える”ことが、地球上の森羅万象の“真実”だなんて思い込んでいるんだけど、ヒトが“感知”できる自然現象や社会現象なんて、高が知れているのかもしれない。もちろん、科学の目を使えば、紫外線が見えたり、地球の裏側の事象を見たり感じたりは出来るんだけど、脳の情報受容体としての“目”から、随時、入ってくる電気信号や、その他の感覚器官からの信号によって、ヒトの感情から行動までが決定されるわけだから、いくら科学の目を持ってしても、常に自分自身で見られる状況になきゃ、、、、、、。
話は変わるけど“音”、コレ、同じ音なのに、印象が変わるって、、、裏を返せば、ヒトの感覚の絶対性の無さ・・・・コレを説明するのに、うってつけの現象があるんだけど、、、、
鍵盤楽器が自宅にある人は、実際にやってみてほしい。
まず、“ド”の音から弾きはじめて8度(オクターブ)の音まで弾いてみよう。まぁ、なんでもないというか、悲しくは聴こえないはず。(オトクは8を表わす接頭語だよ!オクトパスとか。でも、オクトーバーは、間にシーザーとアウグストゥスが割り込んじゃったから、8なのに10月。。。ちなみに、同じ音階の音はユニゾン。これも、接頭語の1。完全1度のこと)
次に、ドの6度目の音“ラ”の音から始めて、オクターブ目まで轢いてみよう。今度はどう?全く同じ要素(白い鍵盤)だけを弾いているのに、もの悲しい感じがしませんか?
専門的には、Aナチュラルマイナースケール(イ短調)って言うんだけど、不思議でしょ?(詳しく知りたい人は、音楽理論を勉強してねっ!ルート音と長3度、完全5度・・・・なんて、、、結構、面白いんだよ、コレ)
“音ひとつひとつ”すなわち単音自体に、楽しい感じ、悲しい感じがあるわけじゃない。
全体からの切り取り方っていうか、基本の音や前後の音との“度数”の関係、最後の音と一つ前の音の関係などによって、ヒトは違った印象を受ける。音楽理論が大脳生理学的にどのようにして“悲しい感じ”を惹起するのかは知らないけれど、そういうものなのだ。
これって、20個の事象(真実だとする)があったとして、そのうちの10個の事象をを切り取るとして、その切り取り方、見せ方で、印象が変わることを利用しているのが、マスコミや新聞報道や小説家(フィクション、ノンフィクション問わず。歴史ものなどは際たるものかも知れない)。彼らは音楽理論や生理学をしらないけど、ヒトの情動の変化の仕方を知らないうちに身に付けている。
さすがは、文学って感じ。
ただ、文学なら、当然のことも、マスコミや新聞報道では許されない。
そして、、、、
もっとも許せないのが、社会科(歴史)の教科書。
震災騒動の陰に隠れて、コッソリと、またまた、自虐的な内容がてんこ盛りらしい。そう、事実の選択が、自虐的なんだよ。それを書くなら、あっちもこっちも書いておかなきゃならないんじゃないの? って(“生き証人の言”とかを根拠にしてたりするけど、その人が、その時代の全てを見てたわけじゃないから、本当の意味での“証人”にはなりえないし)。
自虐的な政府の態度で、自虐史観って、もう、懲りたんじゃなかったのかなぁ?
どこかに、悪の巣窟(自虐的歴史観の総本山)があるの?
どんなに自虐的になっても、韓国は竹島占拠はやめてくれないんだよ!もう、イイカゲン、わかったら?自虐的な態度に日本の“利”は無いんだって!
、、、、、と、ちょっぴり、小さな“事件”に反応してしまいました。